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武田綾乃『馬鹿者の恋』について

 『馬鹿者の恋』は2022年春に実業之日本社から発売予定の百合小説アンソロジーに掲載される予定の作品であり、2021年11月17日発行の『THE FORWARD(Vol.1)』に掲載されている、武田綾乃の新作短編だ。

 

 今作は、『響け!ユーフォニアム』などで百合と呼ばれるような関係性を描かれている著者が”百合”というテーマに真っ向から描いた作品だ。

 

 読んで感じたのは、性の匂わせだ。元々リアリティの付け方が上手い作家であるし、特筆する点でもない部分であるともとれるが、性をかなりの密度で混ぜ込んでいるのがかなり上手いと思った。

例えば、千晶が萌、司と食堂に行く場面で司が「ガキ」「過保護」と千晶に挑発したこと、それは萌が照れる描写が数日前に萌と司がデートしていることで二人が”ガキ”ではなくなったことを匂わせていたり、分かりやすく慣れた手つきで萌が司の手に納まるところ、最後にそれこそふたりのキスなど、もちろん作中にそれと言った明言はないが、確定であろう。

これは同性愛と友情の差を意識してのモノだろう、作中で”好き”の意味合いの違いが問題になるからだ。

加えてこういった女子高校生の”ノリ”のようなものとその先にある感情との折り合いというテーマは読者の記憶を想起させ当事者的にも現実にある話だと幻視してしまう力がある。

 

 

 

一行感想

百合BSS、おいしゅうございました。

『コールミー・バイ・ノーネーム』、証明というバズーカ

 

 斜線堂有紀の百合長編

『コールミー・バイ・ノーネーム』読みましたので感想を認めます。

 

【あらすじ】

良次愛は、深夜のゴミ捨て場に捨てられていた美しく奔放で掴みどころのない女、古橋琴葉と出会う。たちまち琴葉の魅力に囚われる愛だったが、友達になることは固く拒まれてしまう。そんな琴葉が持ちかけてきたのは、友達ではなくて“恋人”になること―そして、自分が改名して“琴葉”になる前の“本当の名前”を当てられたら、愛の望み通り友達になる―という奇妙な賭け。仮初めの“恋人”としてぎこちなくも関係を深めていく二人だったが、琴葉の“本当の名前”に秘められた凄絶な過去は、そんな幸福な時間が続くことを許さなかった―。俊英・斜線堂有紀が放つ待望の百合長篇第一作にして、切なさが炸裂する“名前当て”ミステリーの金字塔! (『コールミー・バイ・ノーネーム』)

【感想】

 えっちな百合小説を読みたくなったので読みました。

なんだけど、この作品を読むうえでこの動機というのが一番…………。

いや、大学生百合だし当然にあるだろうとの推測は確かだったが。

 

百合でこういう「同性の母親による性的虐待」テーマは痛いところをつかれたという気持ちになる、〈おねロリ〉という百合のジャンルが、それが百合として良いものであるというのとは別に、暴力であるという了解がファンの内で暗黙にあるような気が私の観測範囲ではしている*1が、その部分を〈おねロリ〉ジャンル外で表現された作品だと感じた。

 

著者自身があとがきで書いていることですが、本作は「愛」の話でラブコメであるのですが、あとラストの部分で完全にこの虐待を超克できていなくて、章題も《証明継続》になっているのですが、ここで二人は互いを確実に好きと分かっていて「友達」としているのが本当によくて、不安定な関係における「恋人」との対比と名前に呪われる宿命に感じている琴葉が「友達」の名前の元にキスを求めるところが水族館での回答として美しすぎた。

 

【あとがき】

・名前当て部分における愛の探偵感がマシマシでミステリ!!答え合わせ!最高!と思った(棚に積んだままになっている「楽園とは探偵の不在なり」を横目で見つつ)

 

・『砂糖菓子の弾丸~』以降砂糖菓子が良すぎてろくに本を読めていなかったのですが、ようやく読み切った小説がまた虐待モノとはどういう因果か……

 

星海社百合は「夢の国~」「コールミー~」と来ているので、次は満を持して「エス

レーション」を読みたいですね!!(積読

 

・呪いを解く解呪とSFマガジンに載せられていらっしゃる百合短編『回樹』が同じ読みなのわざとか???

 

*1:私がおねロリをあまり見ていなく、その界隈にいないのでただの感想です

『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』、実弾とバズーカ

バズーカ、バズーカ言っているので実弾とロリポップの本書を読みました。

 

あらすじ

その日、兄とあたしは、必死に山を登っていた。

見つけたくない「あるもの」を見つけてしまうために。

あたし=中学生の山田なぎさは、子供という境遇に絶望し、

一刻も早く社会に出て、お金という”実弾”を

手にするべく、自衛官を志望していた。

そんななぎさに都会からの転校生、海野藻屑は何かと絡んでくる。

嘘つきで残酷だが、どこか魅力的な藻屑となぎさは徐々に親しくなっていく。

だが、藻屑は日夜、父からの暴力に曝されており、ある日――

 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

 

感想

冒頭でも書いたが、まさしくバズーカだった。

バズーカというのは現実世界に対する武器だ、これは『ジュリアとバズーカ』で描かれている。

藻屑は、虐待を受ける中で世界に対して砂糖菓子の弾丸を撃ち放ち続ける、他方なぎさも世界に威力をもたらす弾丸を求める。

『ジュリアとバズーカ』では麻薬と注射器であったそれが本作では、彼女らの連帯となっており、それがよく作用している。

藻屑とその父が鉈を求める場面で、なぎさが鉈を渡したがそれが巡り巡って藻屑を切り刻むことになるアイテムであったりなど。

力のない中学生、それも彼女らは13歳中学一年生だ、そんな彼女らが戦うには大きすぎる嵐、現実でも貧困の世襲や虐待が取り沙汰される今こうした視点が大切であるが、しかし解決しようとするのは作中の先生のようにそれは難しい、なぜなら大人だから――

188頁最後の文章は忘れないでおきたい。

 

あとがき

『少女庭園』での”人が死ねば話ができる”を、地で行っている作品(本作は藻屑が死ぬことを示してから始まる)を『少女庭園』の次に読んだのには、何の因果だと笑ってしまった、”死”の耽美さや魅力も感じられるのも本作の良いところだ。

今まで読んできた三冊に比べると、ライトノベル?の時に書かれたものだからなのか、先生の筆力か先生の作品を三つ読んでいるからなのか(GOSICK、私の男、バラバラ死体の夜)、分からないが読みやすく桜庭先生のファンだなと改めて思った。

 

『少女庭園』、創作活動とバズーカ

 一言で言うと本書は奇書だ。

 

『少女庭園』は前半が「少女庭園」後半は「少女庭園補遺」という二部構成になっており、卒業式の日講堂に向かっていたはずが気が付くと石壁の部屋に閉じ込められていた

その部屋には二枚の扉があり、唯一開くほうの扉に以下が書かれた張り紙がしてある

ドアの開けられた部屋をnとし死んだ卒業生をmとする時、

 n-m=1とせよ。

時間は無制限とする。

(p.12)

それを熟読した後、扉を開けるとそこには自分と同じように卒業生が寝ていて・・・・・・

というようなあらすじから始まる。

 

前半は、羊歯子という少女が目覚め、脱出を目指し扉を開け集団の人口が一人また一人と増えていくも一向に出られず、最後には投票により皆が死に羊歯子一人が生き残るという話だ。

脱出が成功したのかということや脱出後の描写はなく、ただ女子中学生が行き場のないなか決断するというストーリーだ。

 

この作品の真の魅力はこの次「少女庭園補遺」にある。

まず始めに書いておくが結論この章でも誰が何故どうやってこんなことをしたのかや、脱出したとしてその先はどうなっているのかなどは一切示されない。

 

この補遺で示されるのは計63人の少女が遭遇した上の問いに対する行動だ。

 

ある女生徒は目覚めた後、隣室の女生徒を殺害した。またある女生徒は隣室の女生徒を認めると自殺した。またある女生徒はじゃんけんで生き残りを決めた。などなど

63人の女生徒の物語は様々な形で帰結していき、最終的にはこの部屋に定住する方向に行動し開拓し人肉を食らい奴隷を従え町までも建設するのだ。

 

この小説が何故奇書なのか、それは63パターンの実験を見せつけられているからなのだ。

それは、殺害や自殺といったある種単純な帰結ではない特殊な事例である、開拓行動等には少女たちの活動以外に観察記録のようなものが付記されていることからも分かる。

さらに60番目の少女の話ではより直接的に、メタ的な上位存在の可能性を示唆し欲求を持った(持たされた)主人公が最終的に死ぬ話はストーリーとして成り立つということが言われるが、これも現実脚本の教本などでは”主人公には欠けている部分があり何かを求めさせろ”ということは散々書かれていることだ。

 

本書はデスゲームのような世界でそういった創作に対してのアンチテーゼを孕んだ実験なのだ。

 

あとがき

 

 

 

(前略)美しい少女ほど、コレクションの対象とするのにふさわしい存在はあるまい、と考えたからだ。(後略)

『少女コレクション序説』p.10

 

 

 

 

   『娘役』、片桐とバズーカ

 宝塚歌劇団における”娘役”に焦点をあてた宝塚小説第二弾

 宝塚ファンのヤクザをエッセンスに、宝塚歌劇団における娘役を描く

 

 この作品で魅力は何といっても、娘役ほたる視点から語られる娘役の苦労とそんなほたるが抱く憧れの先輩薔薇木への想いだ。

 

前作『男役』では

「(前略)私は男役の芸を極めるために人生のすべてを捧げてきたんですよ。(後略)」

『男役』p.103

 というような苦悩が描かれるが同じように本作いおいても

(前略)娘役は可愛い女を演じるのではなく、素から可愛くなることを追求することが仕事なのだ。(後略)

『娘役』p.72

 に従って髪型やアクセサリーに所作までもが追及することを強いられていることを示す。

加えて本作には宝塚歌劇団特有のコンビ愛についても筆致確かに描かれる。

熾烈な世界だからこそ生まれる絆の魅力は前作『男役』にも劣らない。

薔薇木とレオンのコンビがうまく見えた時のほたるの心理描写は必見だ、河を隔ているがゆえに何もできずに見ることしかできない、そしてそれが最終的に物語冒頭へと還ってきたときは、本当に心地がいい。

 

ヤクザ要素とタカラヅカ要素の融合度合いは、前作のファントムさんとの融合具合と比べれば劣ると感じたものの、登場人物たちが本当に在籍しているかのような描きっぷりは素晴らしく、続く『銀橋』への期待と中山作品の面白さを感じた。

 
あとがき

私自身、宝塚大劇場にはがたびたび通っているので、その視点からもニヤニヤと楽しんだ、p.141のオタク感もリアルで笑ってしまった。

 

 

『夢の国から目覚めても』、ゆゆゆりとバズーカ

TLでブログに感想を認めたものが回ってきて、それに感想を書くしかなかった(意訳)とあったので購入し読むに至ります。

本作は百合同人作家の有希と由香、2人の関係性の変化を描いた作品だ。
前半はレズビアンである有希視点で、ヘテロセクシュアルである同人仲間の由香への気持ちを告げられない。
後半では一線を越えた由香視点で、前半よりもより社会的な場面を出しながら変わっていく関係性を描く。

――私が、その同性愛者だよ。
いまもそれに悩んでいるよ。
無理だよ、そんなこといえるはずがない。
(p.56)

 ​これは、有希が男性作家に”百合作品に於いて同性だからと悩む描写なんて古い”と思わないかと聞かれた時のモノローグだが、ここが主題であると感じた。
”どう創作するか、どう百合と向き合うか”
そしてこの後に続くのが、創作物のために現実を消費された恵利ちゃんの話だ。

 

「・・・・・・全部、題材にされちゃうんですね」
(p.70)

 百合はこの恵利ちゃんの話で出てくるのと同じ創作物だ、レズビアンとは違う。
しかし、この作品はそれを提示したうえで、夢の国改め百合の国の可能性を示す。加えて言えばラストは二次創作ではなく実体験をベースとした創作である。
この差が百合を書く意義なのだ。

 

ひとりひとり全然違うひとたちが、全然違う理由を持ちよって、同じ夢を描いている。
(p.108)

 広がって、覆って、世界中が夢の国になればいい。
そうしてすべての女の子が誰かに愛されて、みんな幸せになればいいんだ。
(p.238)

 

百合の持つ力を信じて。

 

あとがき

「百合は誰のためのものか」それは徹頭徹尾、読者のものだと考えているけど、作中にあるように欠けているから創作するのであってだからこそ、誤読は存在する。みたいなことを読んでいて思った。
だからこそ、有希と由香は知り合えたし陽猫も――

百合に思いを抱く人に広く読まれるべき作品だ。

COCOON ジュリオについての備忘録

 

 1.初めに

2019/6/4大阪サンケイホールブリーゼにて、COCOON月の翳りを観劇してきました。

 星一つもライヴュで観ていまして。

 内容的にもウルを軸として繭期の不安定さと美しさ、そんな多感な時期に悩める若きヴァンプ達と個人的に大変満足のいくものでした。

 正道としてはここから、ラファエロ・アンジェロ・ウルについて述べるのが良いかもしれませんが、今回の舞台なんといってもジュリオに心惹かれたので忘れないうちに、書き残すためにここに記します。

 初めに”COCOON”というのは末満健一(日本の劇作家、脚本家、舞台演出家、俳優 Wikipediaより)氏の作品であるTRUMPという演劇シリーズの新作で2019/6/5まで公演が行われていました。(COCOONという作品は事前情報が隠されて発表されていたので、本稿でもそれを倣ってここまでの説明とします)

 2.ジュリオについて

では早速ここからはジュリオについて、思いのたけを羅列していきいます。

形式は、私がtwitterにて喚き散らしたことをひっぱてきてそれにコメントするという形で

 

 観劇直後です。ラストでの決別の顛末TRUMPへのつながりよりも”ジュリオ”に惹かれてしまったのです。

 

  

 

 

まずジュリオのビジュアルについて、上に引用したようにジュリオの容姿ってのが田中亨さんの美形+長い黒髪に長い袖(自分の手が袖から外に出ないくらい)なんですよね

それが舞台の中で翻るんですね。まずそこに目を奪われる。そしてちらりと見える美貌に魅了される。食虫植物を連想させる蠱惑的な美を湛えていました。

(田中亨さんが自身のtwitterに写真を投稿していらっしゃるのでぜひチェックしてください)

 ジュリオの衣装について。彼の袖の長さは丈にあっていない=子ども特有の背伸び

もしくは、成長途中などをあらわしているんですよね。(独自解釈)だからこそ、繭期を抜けたラストのシーンでは袖丈があっていたと考えられます。

しかしそうなると疑問として出てくるのは、カーテンコール時のジュリオの袖丈は長いものに戻ってたという事実です。これに関しては

 

 このような解釈をとっています。カーテンコール時のディエゴは客席をじっと見つめ

繭期を惜しんでいるように感じさせる部分がはありました。そこから、アンジェロは繭期を抜けられないディエゴ(居場所として+人の血が流れてる故の短命)を思って、ディエゴと並びたてる最期場所だからこそのあの袖だと考えました。

  

  次はジュリオの”友情は繭期と一緒に置いていく。そして未来に懐かしむ”というあの発言について。

関連のツイートをふせったーで投稿したためここは文章のみで

 舞台終盤、ジュリオはエミールとの会話で「友情は存在しなかったのかもしれない」

あったとしても「ここに置いていく」という趣旨の発言をしています。

これは日々に飽き退屈していたジュリオを、その中から出してくれたディエゴという存在が掬いだしてくれた。ジュリオはディエゴの赤が好みと言っていた。この好みが友情と繭期のキーワードだと思う。

 置いていく宣言、あれは繭期に執着してはいけない(ドナテルロとグスタフの関係も踏まえて)ってことを言っているのだと考えると、繭期とそれにリンクして生れたのが友情でありつるむ理由なわけで、越繭したジュリオにはディエゴの存在は重すぎたんやなって......

 決してジュリオもディエゴたちとの友情がなかったとかじゃなくて、ただ”そっちには行けなかった”だって思った。

 この先の将来ジュリオがディエゴと再会するかは、個人的には再開しない道が至高かなって思う。邂逅すれば必ず繭期を思いだしてしまう。それはジュリオにとってもかもしれないけれど、ディエゴにとって何よりつらいはずなので、絆のあるジュリオは分かって会わないのかなっていうのが解釈です。

 

ジュリオの赤に惹かれるというのは日々を退屈に思ってるからこそ、衝動的な赤に惹かれたってのもあるかもしれないけど、個人的には劇中の行動でジュリオは真っ先に他者をいたわるような行動/思いやりのある行動をしていた(あの袖じゃ剣握れないだろとかメタ的なのは無し)ように見えたので、心が傷ついて血を流しているからそれを思って側にいたのでは?って解釈してます。(ディエゴの見せてくれた夕日の色だったから赤が好き説もかなり私好み)

 

田中亨さんがTwitterに上げた写真の髪飾りについて。

 濡羽色の髪に黒の飾りって……見えなかったよ!なの写真で見ての感想。あれ三つの黒い丸?or月の飾りだと思うんですけど、飾りの数が三つってのが最高に佳くて。完全にディエゴ・ジュリオ・エミールじゃないですか!!三つ並ぶといえばオリオン座の三つ星か(黒い)3連星かどちらにせよ、完全に友情を持ってつけていると思われる......

連星と取った場合。三つ子ということなので、三人の強固な友情。それゆえに相手を思っての”友情は置いていく”......

袖が越繭下あとにないの、ドナテルロが追い求めた繭期の美しさの儚さを表しているんだよね……

 

ラファエロに言った“なれるといいな……”について

めっちゃ声がよかった……

事件後のラファエロへの呼び方が変わってたのが胸に刺さる刺さる。疎遠になったとしてもわざわざ挨拶しに行くし、こんなこと言うジュリオくんの思い。ラファエロとの間には友情と呼べるものは無かったかもしれないけど、仲間意識を持って接していて気に掛けていたことがわかる。

 

 

3.終わりに

 とりあえず自分自身のジュリオについての解釈を詰め込んだつもりです。(見落としがあればそのたび追記します)

濡羽色のロングにぱっつん、腕より長い姫袖にどこか夢のように思わせる立ち振る舞いに魅惑の容貌。ジュリオのすべてが好きです。

 そんなCOCOON月の翳りのDVDが11/20に出ます!僕は飛んで喜んで会場で予約しました。

After bromide涅槃像ジュリオ、ディエゴ×

とジュリオ、カーテンコールジュリオが佳すぎて予約しました。

ジュリオを延々とみられる永遠のジュリオ。ありがとう